志賀島の歴史 ~蒙古襲来編~

はじめに・・・

当サイトは、志賀島在住40余年の志賀島地元民である浜辺の旅館満帆荘の若旦那である僕が、さまざまな視点から志賀島の魅力についてお伝えするブログです。

志賀島の歴史は古く、島内にある志賀海神社に祀られていて日本神話初期に登場する”綿津海三神”

から始まり、長い歴史のいくつかは歴史の教科書にもおさめられています。

最古の歴史は神産みで知られる日本書紀に登場する綿津見三神までさかのぼります。

今回はその中から教科書にも載っている志賀島の歴史の中より、”蒙古襲来”についてお話させていただきます。



志賀島内西側の蒙古塚。暴風雨で難破後処刑された蒙古軍兵士の魂を鎮める首塚。写真提供:福岡市



目次

はじめに

モンゴル帝国とは

文永の役

弘安の役

蒙古襲来にまつわる史跡



はじめに

 今からさかのぼること750年前の鎌倉時代中期、ユーラシア大陸のほとんどを征服したモンゴル帝国が日本へ侵攻してきました。これが文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)の二度にわたる蒙古襲来(元寇)です。 

 モンゴル軍は対馬や壱岐を蹂躙したのち、博多湾沿岸へ侵攻。鎌倉幕府の軍勢と激突しました。とりわけ志賀島は弘安の役において、最大の激戦地として歴史にその名を留めています。 


 

 モンゴル高原の遊牧部族だったチンギス・ハンが、1206年に建設した国家です。初代皇帝となったチンギスはモンゴル高原から中国北部・中央アジア・西トルキスタンに及ぶ大帝国を築き上げました。

  第5代皇帝フビライ・ハン(クビライ・ハン)の時代になると、その支配圏は朝鮮半島や西アジア、さらにはロシアやヨーロッパ西部にまで広がり、地球上の陸地の実に20%以上を治めたと言われています。 

1271年、フビライはモンゴルと中国にまたがる領域に中国風の王朝名を付け、「元」と称しました。翌年には首都をカラコルムから大都(現在の北京)へ移し、本格的に中国大陸の征服に乗り出すのです。

 元々は「宋」が中国大陸を支配する王朝でしたが、モンゴル帝国の圧迫を受けて南部へ撤退し、「南宋」と称していました。しかしフビライが差し向けた遠征軍によって1276年に南宋は滅ぼされてしまいます。

 日本は交易を通じて南宋と親密な関係を築いていましたが、南宋が滅んだことで多くの禅僧が日本へ亡命し、鎌倉幕府に保護を求めました。幕府8代執権の北条時宗はこれを受け入れ、モンゴル帝国に対して大きな警戒心を抱いたようです。

 いっぽうフビライの目は日本へ向けられようとしていました。戦略物資である硫黄が豊富に取れる国ですし、イタリアの旅行者マルコ・ポーロから「日本には黄金が潤沢にある」という話を耳にしていたからです。こうしてフビライは日本を服属させる決心を固めました。 


 すでに文永5年(1268年)の段階で、フビライの国書が日本へもたらされていましたが、幕府や朝廷は態度を固くしていました。なぜなら亡命してきた南宋の禅僧たちが、モンゴルの暴虐ぶりを訴えていたからです。

 また外交については朝廷の了承を得なければなりません。朝廷側と幕府側で様々な意見が交わされ、6度に渡る服属要求があったものの、外交交渉はほとんど進展しませんでした。

そのいっぽうで北条時宗は不測の事態を考え、西日本の武士たちに臨戦態勢を取らせます。さらに異国警護番役を北九州に設置しました。 

いっこうに進展しない状況にいら立ったフビライは、ついに日本侵攻を決意します。文永11年(1274年)10月3日、モンゴル軍2万そして高麗軍1万数千が朝鮮半島の合浦から出航。早くも2日後には対馬へ到着し、宗資国と合戦に及びました。 

資国は奮戦するものの全滅。対馬には略奪と暴虐の嵐が吹き荒れ、島はすっかり荒廃してしまいました。壱岐もモンゴル軍によって占拠され、ここでも対馬と同様の悲劇が繰り広げられたといいます。さらに松浦水軍も為すすべなく敗れ、肥前沿岸も大きな被害を受けました。

 その頃、蒙古襲来を知った大宰府からの通報で、九州の武士たちが続々と博多一帯へ集まってきます。そして博多湾から上陸しようとするモンゴル軍を阻止するべく待ち構えるのです。

 10月20日、モンゴル軍は百道浜から上陸し、東へ3キロの地点にある赤坂へ達しました。日本軍はこれを迎え撃ち、モンゴルの集団戦法に苦戦しながらも撃退します。さらに進んで鳥飼潟や姪浜でも激戦が展開されました。

 両軍とも2日間にわたって戦い、大きな損害を出しつつ日没を迎えました。ところがモンゴル軍は夜のうちに船へ乗り込んでおり、翌朝になってみると湾内は空っぽになっています。それでも逃げ遅れた船は捕まり、多くの兵が捕虜になったそうです。 


モンゴル軍は敗北したわけでもないのに、なぜ急に撤退したのか?その理由には諸説あるようです。

 ・日本の武士が想像以上に強く、戦っても勝ち目は薄いと判断したこと。 

・モンゴル側の大将が負傷したため。 

・武力を誇示することが目的で、初めから本気で攻めるつもりはなかった。


 このような理由が考えられるそうです。 いずれにしても日本軍の奮戦でモンゴル軍は撤退し、武士たちは日本を守り切ったのです。



 文永の役は失敗に終わりましたが、それでもフビライはあきらめませんでした。服属要求の使者を日本へ派遣するのですが、北条時宗は苛烈な措置でこれに対抗しました。使者を捕らえて鎌倉へ送り、なんと斬首してしまったのです。フビライはおおいに怒り、弘安4年(1581年)になると再び日本遠征軍を組織させ、モンゴルの大軍が九州を目指すのです。 

モンゴル全軍のうち東路軍4万が朝鮮半島から、そして江南軍10万が中国から出撃しました。合わせて14万という空前の兵力です。5月初めに対馬・壱岐へ侵攻した東路軍は、一気に博多湾へ上陸して大宰府を狙おうとしました。 

しかし時宗も警戒を怠ってはいません。すでにモンゴル軍の再征を予想して博多湾沿岸に防塁を築かせ、鉄壁の防御態勢を整えていました。さらに九州だけでなく中国地方や四国地方からも武士が集まり、敵の来襲を待ち構えていたのです。

 博多湾へ侵入した東路軍は、思いのほか日本軍の陣地が分厚いことに気付きました。軍船を寄せて上陸しようとするものの、防塁に阻まれて叶わず、矢は雨のように降り注いできました。どこからも上陸できないまま作戦はついに失敗。沖合へと撤退していきました。 

次に東路軍が目を付けたのが湾外にある志賀島です。ここなら防塁も築かれていませんし、軍船の停泊地としてはうってつけでした。島の周囲に軍船を並べて守りを固め、東路軍の大将たちは善後策を協議します。 

 そんな状況の中、日本軍は逆襲を仕掛けました。東路軍を追い落とすべく総攻撃に打って出たのです。細長い海の中道を伝って軍勢が殺到し、さらに海からも日本軍の攻撃が加えられました。

 東路軍は海の中道にいる日本軍目掛けて弩(いしゆみ)を放ち、瞬く間に数百人を討ち取ります。しかし日本軍の武者たちは損害をものともせず騎馬で駆け抜け、たちまち敵を追い散らしました。

 いっぽう河野通有ら海の戦いに慣れた者たちが海上から攻め掛かります。「義経の八艘飛び」のように敵の軍船を飛び回り、太刀を振るって斬り込んでいきました。東路軍も必死の抵抗を見せるものの、少数精鋭の日本軍を前にして劣勢となっていきます。 

東路軍は、狭い志賀島の周囲で固まっていたことが仇となり、格好の目標とされました。また得意の集団戦術も発揮できません。相次ぐ敗戦の中、とうとう撤退を決意して志賀島を離れていくのです。

 いっぽう遅れて出撃した江南軍が壱岐に達していたため、東路軍はこれと合流することで再起を賭けようとしました。

 7月下旬、合流した東路軍と江南軍は鷹島を根拠地にして再び上陸を狙いますが、日本軍は機先を制して奇襲を敢行します。大きな打撃を受けたモンゴル軍は、鷹島を中心に防御を固めることしかできません。 

そして7月30日夜半、九州一帯を台風が襲いました。多くの軍船が沈没し、あるいは損壊し、4千隻あった船が一夜明けると200隻しか残っていなかったそうです。

 こうなると戦いどころではありません。残った将兵を収容しつつモンゴル軍は撤退していきました。こうして日本軍は大きな犠牲を出しつつも、日本を守り切ってみせたのです。 


蒙古襲来にまつわる史跡


 激戦となった舞台の志賀島だからこそ、いくつかのモンゴル軍由来のスポットが残されています。

一つ目は弘安の役で台風によって難破し、流れ着いたモンゴル軍兵士を打首にしたのち、魂を鎮めるために祀られた蒙古塚。 

そしてもう一つは、襲来するモンゴル軍を退散させるべく、高野山の高僧が祈願した火焔塚などがあります。

 また、今でも福岡県内の海岸線のいたるところには元寇防塁が残されていて、激しい戦いの歴史を物語っているのです。 

志賀島 満帆荘 ~しかのしま まんぽそう~

当店のある志賀島『勝馬地区』。 全部屋オーシャンビューの浜辺のお宿です。 目の前の舞能ヶ浜が作り出す湾内では、潮の満ち引きにより様々な景色が楽しめます。 干潮時に現れる砂丘『大門(おおと)』 渡れるようになる神の島『沖津宮』。 沖津宮に沈む夕日を肴に一杯。 当館の目の前の海では海水浴や磯遊びなどもでき、 悠久の時を刻む自然が今もなお楽しめます。